彩の国黒豚の生産地取材2日目。
今日は、彩の国黒豚倶楽部の笠原常正会長のところに伺います。前日、初めて彩の国黒豚に会い、橋本副会長からもいろいろとお話を伺って、帰り際には「金豚雲(きんとんうん)」が見送ってくれるサプライズもあり、もはや私のパワースポットのようにすら感じている深谷市。明治時代から黒豚を飼育していたというのが笠原会長のお宅です。ここに書ききれないくらい黒豚にまつわる話が飛び出してきました。ぜひお付き合い下さい!
今日もインターンのケント君と共に川越を出発し、関越自動車道・花園インターチェンジをおり、まずはJAさいたまの木村さんのもとへ。午前中、県内を回っておられたという木村さん。私たちの取材に間に合うようにも戻ってきて下さいました。本当にありがとうございます。「昨日伺った橋本さんのところとは、また雰囲気が違いますから。じゃあ、行きましょう」ということで笠原会長のお宅へ出発。JAさいたま北部センターから車で5分ほどで到着です。
昔ながらの農家という風情のお宅。何か懐かしい。倉庫の前には、柿が吊るしてあります。私ごとで恐縮ですが、父方の祖父・祖母が住んでいた岩手の古い家に雰囲気がそっくり。玄関脇にあるお部屋ではじめて笠原会長と対面し、ご挨拶をさせていただきました。
お宅の裏手に豚舎があるというので、昨日も着た紙製のつなぎと靴カバーをまず着込もうという話になり、着始めたのですが、ここでハプニングが発生!私の着方が拙かったので、つなぎのファスナーが壊れてしまいました。・・・・・・。これでは豚舎に行けません。「近いから取りに行ってきますよ」と木村さんが北部センターまで取りに帰ってくれることになりました。木村さん、申し訳ありません・・・。
その間に、笠原会長からいろいろなお話を伺うことにしました。実に興味深い話の連続。やはり歴史が違います!
「戦争中は、満鉄のあたりに種豚を送っていました。兵隊さんの話では、今の内陸、モンゴルのほうに、日本国の看板を背負った黒豚がいたって。相当奥まで行っていたんだね。さすがにその豚は食べられなかったらしいけど・・・」もろろんです。日の丸を背負っている豚を食べたら、処罰されてしまいます。
昔、種豚ははこのようなカゴに入れて輸出したそうです
「うちのじいさん、先の戦争の時は人間と同じ食料を食べる豚を飼っていたので『国賊』と呼ばれたんです。ただでさえ食料がないんだから。でも、軍の配給は玄米をするので、それを白米にして、こぬかをうちによこせば、食料と肉を間に合わせると交渉したんだ。麦ぬかとかこぬかをバークシャーに食べさせたんだね。バークシャーは食べ物が悪くてもラード型といって脂を蓄積する能力が優れているので、戦争中も豚を減らさないで繁殖できたんだよ」なるほど。
「この辺では豚がいないうちは作物がとれなくなってしまったんだわ。家畜がいないと肥料もないから、畑がやせちゃって。家畜がいる家は、畑にまいた。そして、畑で採れたさつま(いも)を豚に食わせる。また畑にまく。そうやって繰り返していたんだわ。だから、豚に助けられたよ」循環型農業のお手本のような話です。
「昭和のはじめは世界的な不況があってね。銀行がつぶれたりしたんだけど、その時に140号線沿いや秩父鉄道が通っているほうが山だったんだけど開墾をしようという話になった。開墾した土地はやせているから、そこに豚に踏ませたものとかをまいて肥沃にしたんだ。」豚が土づくりに貢献したのですね。
「うちは蚕の種屋もやっていたけど、桑原に豚の排泄物をあげてたから、よく育ったよ。タダで蚕をしていたようなもんだね。豚の種屋もやってたの。うちの雄豚をつれて、雌を飼っているうちに種付けにいったよ。雌のところに連れていくんだよ。今みたいに軽トラはないからね、追っていったんだ。棒でピンピンってね。豚は言うことを聞くから・・・。」黒豚だけでなく、お蚕さんも飼っていたのですか。当然畑もやっておられた訳ですので、多角的です(次にもし取材が出来たらこのあたりも詳しく聞いてみたいです)。
彩の国黒豚倶楽部会長・笠原常正さん
「でも、一時期、三元豚などの人気がでて、黒豚が動かなくなった時期があったんだ。三元豚などは(産子数の増加や発育速度の上昇といった)生産性がよかったから。でも、人の話はきかなかった。(冗談ぽく)でも、よいしちゃえばよかったかな。そうすれば、こんな大騒ぎしなくでもよかったのに(笑)」会長に言わせると、この取材は大騒ぎなのだそうです。すみません、会長!
結構なオチ(!)が付いたところで、黒豚がいる豚舎へ連れていっていただきました。木村さんも戻ってこられて、今度は間違いなくつなぎを着ました。行く途中は木造の大きな倉庫のようなものがあるのですが、「これは昔の冷蔵庫」というお話を聞きながら、この倉庫のを回っていった先に、いかにも歴史を感じさせる古い豚舎が。いました、いました、彩の国黒豚。さっそくカメラを向けると、興味を示してくれてこちらを向いてくれました。ハイ、ポーズ!
笠原会長が飼育する元気な彩の国黒豚
今、60頭あまりを飼育している笠原さん。ずっとバークシャーにこだわり、生産性の高い豚には目もくれず、黒豚を大切に育ててきました。黒豚を見つめるそのまなざしは、本当に優しい。バークシャーを「バーク」と短縮して呼ぶその声もずっと寄り添って生きている人を呼ぶよう。きっその想いは「バーク」にも伝わっていることでしょう。
ここでひとつ笠原さんにお願いをしました。彩の国黒豚の飼育の特徴のひとつである専用飼料をいただけないかと。笠原さんは「それは別の豚舎にあるので、また今度用意していおくから」と言ってくださったので、あらためて別の日にお伺いすることになりました。日疋社長も以前食べたという、いも類(キャッサバ・さつまいも)・麦類を主体とした専用飼料を一度自分でも食べてみたいと思っていました。(後日、いただきにあがり、食べてみましたが、形はペレットという形で、いも類・麦類が中心なので食物繊維が多く、まるでシリアルのようでした。結構いけます!)
忘れてはいけないことがもうひとつ。それは日疋社長が見てきたほうがよいと言っていた「顕彰碑」です。笠原会長の祖父にあたる笠原五郎吉翁の功績を称え贈られたものです。笠原五郎吉翁はバークシャー種の種豚を飼育して有畜農業の必要性を訴え、種豚改良にも取り組み、また耕地整理開畑事業にも貢献されました。戦中も飼料不足の中、黒豚を守り抜き、戦後は大激減した黒豚の増産を図り、国内はもちろん諸外国にも輸出するなどの活躍をされました。この方がいたからこそ、今の彩の国黒豚があるのです。明治生まれの気骨の男・笠原五郎吉翁の写真を笠原さんからお借りできましたので、掲載させていただきます。この顕彰碑は今もひっそり佇んでいます。
顕彰碑と笠原五郎吉翁
帰り際に笠原会長からひとことメッセージをいただきました。動画をご覧下さい。バークシャーを「バーク」という言葉の響きが私はとても好きです。
ここで笠原さんと木村さんとは別れ、インターンのケント君と前日お伺いした橋本副会長が熊谷市内、JR高崎線・籠原駅北口で経営している「とんふみ」へ行きました。ひびきの黒豚やきトンはもちろん食べているということでしたが、現地の味もぜひ食べてもらいたいと思い、お連れしました。ケント君は「上ロースとんかつ」、私は「ガーリックソテー」をいただきましたが、ケント君もおいしく食べてくれたようでよかったです。
川越に戻り、ケント君とはひびき本社近くで別れてから、私にはもう一箇所行きたいところがありました。それは、「黒豚劇場川越入り口店」です。この2日間の締めは、やはり「黒豚劇場」だろうと思っていました。カウンターに座ると、「鏡山の純米新酒搾りたてが丁度出たばかりですが、いかがですか?」と廣井店長が勧めてくださったので、いくつかの黒豚料理とともに「純米新酒搾りたて」を注文。心地よいマリアージュを楽しみながら、この2日間に思いをめぐらせました。
ガツ炒め ひびきみそ添え(左)、黒豚の角煮(右)、ローストポーク(左奥)、鏡山純米新酒搾りたて(右奥)。黒豚劇場川越入り口店にて。
この取材で一番強く感じたことは、私たちは「命を食べている」ということでした。生きているものの命をいただいて、人間は食べるのです。魚や野菜ももちろん生き物です。私たちは「命を食べている」からこそ、生きられるのです。昔の人はよく言ったものです。「食べ物は粗末にせず大切に残さず食べよう」と。「もったいない」という言葉が今年は脚光を浴びましたが、以前の日本では当たり前のことでした。「お天道様に申し訳ない」とも。近い将来起こるだろう世界的な食料危機への喚起が叫ばれ、また食料自給率が40%を切っているにも関わらず、捨てられる食料は有り余るほどあるという矛盾に満ちた「飽食の日本」を生きる私たち。伝統的で豊かな食文化を大切にしながら、一度足元を見つめ直す必要があるのではないか。そんなことを考えさせてくれた2日間でした。
「身土不二(しんどふじ)」という言葉があります。「元来人間は、住んでいる土地の身近なところで採れたものを食べ、その土地がもたらす環境の影響を受けて生活してきたものであり、”人と土地は一体である”」という考え方です。まさに深谷市周辺ではこの考え方を昔から実践していました。理にかなった方法で自分の道を歩む真摯な姿勢を笠原さん、橋本さんから感じ、背筋が伸びる思いがしました。きっとまたいつか彩の国黒豚に会いに行くことになるだろうと思いながら。笠原さん、橋本さん、木村さん、ケント君、そして日疋社長、このような機会を与えていただき、本当にありがとうございました。